そもそも神の存在、聖書の真偽、ものみの塔協会の真偽は別問題です。この三つを不可分のものと考えていませんか。エホバの証人の方々によく見られる考え方は次のようなものです。
宇宙の仕組みなどを考えると神の存在を認めざるを得ない。神がおられるとしたら、何らかの方法で人間に意志を伝えているはずである。それは聖書に違いない。その聖書を調べてみると、ものみの塔協会以外に真の組織は考えられない。
幼い頃からエホバの証人として育てられてきた二世や三世は、この三つを一揃えに当然のこととして教え込まれます。そして、自らエホバの証人となることを選んだ一世は、研究生が初めに学ぶ『永遠の命に導く知識』、以前使用されていた『あなたは地上の楽園で永遠に生きられます』を通して上記のような論法を身につけます。ものみの塔協会への批判を神や聖書への批判と受け取ったり、神や聖書の正しさを証明することがものみの塔協会の正しさを証明することになると考えているなら、それは本来別個のものを一まとめにして信じている証拠です。神の存在、聖書の真偽、ものみの塔協会の真偽は、それぞれ別個に検証が必要なものです。ものみの塔協会の真偽を確かめることは、聖書や神を疑うことでも、非難することでもありません。
あなたはものみの塔協会が真の組織だと判断するまでに、どれほどの宗教を調べられましたか。協会に対する批判的な意見をどれほど検証されましたか。協会がこれまで何度も教義を変更してきたことを知っていましたか。協会の出版物だけを学んで、協会が真の組織だと信じてしまっていませんか。
「ただ何も考えなくて済むように宗教に走る"信心深い"人が多すぎる。そのような人は何でもかんでも"信仰"で受け入れようとする」と、米国のある神学部長は書いています。
この言葉が言わんとしているのは、信仰心を持っていると言う人の多くが、自分はなぜそのように信じているのか、またその信仰には相応な根拠があるのかをほとんど考えていないという点です。
(中略)
宗教信条の正確さや真実さについてほとんど考えないその同じ人がちが、日常生活における他の事柄に関しては非常に注意深く考え抜くことがよくあります。ある人は車を買うためだけに−しかも車はいずれ廃棄処分になるのに−あれこれと調べますが、こと自分の宗教に関しては、『親がそれでよかったのなら、自分もそれでいいだろう』と言います。これは、おかしなことだと思わないでしょうか。
本当に神を喜ばせたいと思うなら、神について自分の信じていることが正確かどうかを真剣に考慮すべきではないでしょうか。使徒パウロは、当時、ある信心深い人たちが「神に対する熱心さ」を抱いていると述べました。しかし、それは正確な知識によるものではありませんでした。」(ローマ10:2)
「信仰は理性に基づいているべきですか」『ものみの塔』2002年4月1日号、3ページ