神は輸血を禁じておられます。

エホバの証人が輸血を拒否するのは、輸血にはデメリットがあるからではなく、神がそう命じておられると信じているからのはずです。また、私には医学的な見地からこの問題を論じるだけの知識がありません。そこで、ここでは聖書とエホバの証人の解釈のみに焦点を当てています。

輸血は本当に血を食べることと同じですか

この問いに対して、ものみの塔協会は次のような論理で同じだと結論づけています。

病院では、患者が自分の口を通して食事を取ることができない場合、その患者には静脈を通して養分が与えられます。では、自分の口の中に決して血を入れなくても、輸血によって血を体の中に受け入れる人がいる場合、その人は本当に、「血……を避けている」ようにという命令に従っていると言えるでしょうか。(使徒 15:29)例えとして、アルコールを避けるようにと医者から言われた人のことを考えてください。飲酒はやめても、アルコールを直接静脈の中に注入させるとすれば、その人は指示に従っていると言えるでしょうか。
『聖書から論じる』、309ページ

ここで挙げられている例えは明らかに不適当なものです。なぜなら、養分(ブドウ糖、タンパク質など)・アルコールと血液という全く性質の異なるものを同列に扱っているからです。アルコールは、口からであれ血管からであれ体内に入った後分解され、最終的には水と二酸化炭素として体外に排出されます。では血液はどうでしょうか。口から取り入れた場合、血液は他の食物と同様に消化分解されます。しかし、輸血の場合、取り入れられた血液は血液として機能します。つまり、輸血は一種の臓器移植なのです。もし組織の言うとおりに輸血と血を食べることを同一視するなら、臓器移植は人食いになってしまいます。実際組織はそういった考えから過去臓器移植を禁止していました。

エホバは人間が動物の肉を食べることを許されましたが、人の肉の場合それを食べるにしても、あるいは他の人からとられた器官あるいはからだの一部を移植するにしても、人食い的に人の肉を体内にとり入れて命を保たせる行為を許されませんでした。
『ものみの塔』1968年4月1日号、222ページ

臓器移植が人食いではないのと同様に、輸血と血を食べることは全く別物です。よって、血を食べることが禁じられているからといって、輸血まで禁止するのは明らかに誤りです。

命を犠牲にしてまで輸血を拒否しなければならないのか

そもそも聖書は血についてどのように述べているのでしょうか。

神が最初に血に関する命令を与られたのは、大洪水後のことでした。

3 生きている動く生き物はすべてあなた方のための食物としてよい。緑の草木の場合のように、わたしはそれを皆あなた方に確かに与える。4 ただし、その魂つまりその血を伴う肉を食べてはならない。5 さらにわたしは、あなた方の魂の血の返済を求める。すべての生き物の手からわたしはその返済を求める。人の手から、その兄弟である各人の手から、わたしは人の魂の返済を求める。6 だれでも人の血を流す者は、人によって自分の血を流される。神は自分の像に人を造ったからである。
創世記 9:3-6

ここで神は食物とするため動物の命を奪うことを許されましたが、その血を食べることは禁じられました。そして、「人の血を流す」こと、つまり殺人を禁止されました。この命令は、ノアを通じて人類すべてに与えられたものであり、今日も有効です。それゆえ、次の使徒に記された命令も、この創世記の命令をふまえたものであるはずです。

すなわち、偶像に犠牲としてささげられた物と血と絞め殺されたものと淫行を避けていることです。
使徒 15:29

ものみの塔協会が強調するのは「血」のみですが、注目すべきはその後に「絞め殺されたもの」という言葉が続いている点です。「絞め殺されたもの」とは、もちろんきちんと血抜きがされていない肉のことです。もしこの聖句の「血」があらゆるものの血を意味しているのなら、わざわざ「絞め殺されたもの」と書く必要はありません。ただの重複表現になってしまうからです。ではなぜ「血と絞め殺されたもの」と記述されているのか、という疑問がわき上がってくるわけですが、創世記の命令と完全に調和しているからだ、と考えると納得がいくのではないでしょうか。つまり、この使徒の聖句も創世記と同様に、殺人と動物の血を食べることを禁止するものなのです。

ところが、組織はこの聖句を輸血拒否の根拠とするために上述の点を無視し、次のような主張をしています。

聖書のこの禁止命令には人間の血も含まれますか

含まれます。初期のクリスチャンはそのように理解していました。使徒 15章29節は「血……を避けている」ようにと述べています。それは、単に動物の血を避けているようにとは述べていません。(レビ記 17:10と比較。その聖句は「いかなるものであれ血」を食べることを禁じていました。)
『聖書から論じる』、308-309ページ

「『だれでもイスラエルの家の者あるいはあなた方の中に外国人として住んでいる外人居留者で、いかなるものであれ血を食べる者がいれば、わたしは必ず自分の顔を、血を食べているその魂に敵して向け、その者を民の中からまさに断つであろう。
レビ記 17:10

組織は聖書が「いかなるものであれ血」を食べることを禁じていると主張しますが、それは事実ではありません。以下のように、魚については聖書が特に述べていないことを認めています。

●魚を食べる前に血を抜くことは必要ですか。
 聖書には、魚の血を抜くことについては特別に述べられていません。陸に住む動物と鳥についてのみ、『もし食わるべき獣あるいは鳥をかりえたる者あらばその血をそそぎいだし土にてこれをおおうべし』と書かれています。―レビ、17:13。
 モーセの律法の条件に合った食用にふさわしい魚には、注ぎだして土でおおうほど多量の血はありませんでした。律法が魚の血を抜くことについて明確に述べていない理由がそこにあるのは明らかです。
 血を抜くために、肉をしぼるかまたは水に浸たしなさいという規定が聖書にない以上、魚の血を抜くために極端なことをする義務はありません。もとより、あらゆる種類の動物の血はその動物の命を象徴しますから神聖です。それで、魚を切り開いたときに血のかたまりがあるのを見たなら、それを除くべきです。
「読者からの質問」『ものみの塔』1973年8月15日号、510ページ

血がわずかしか含まれていないような小魚などは、血を抜く必要がなく、エホバの証人も何の抵抗もなく食べています。「いかなるものであれ血」を食べることを禁じているというなら、徹底的に血を抜くべきではないでしょうか。通常販売されている動物の肉は血抜きがされているとはいえ、ある程度血が残っています。料理をする前に、さらに血抜きをすべきではないでしょうか。そして、血抜きをしていない小魚などを食べるのは、やめるべきではないでしょうか。

こういう問いに対して、エホバの証人から返ってくるのは、「神は極端なことは要求されていない」という答えです。では、たとえ命を失おうとも輸血を拒否しなければならない、というのは極端ではないのでしょうか。動物の肉から徹底的に血を抜くために手間暇かけることも、魚を食べることをやめ、食の楽しみを犠牲にすることも「極端だから」といって要求されない神が、輸血に関しては命を犠牲にすることまで要求されていると考えるのは理にかなったことでしょうか。

以上のように、血を食べることと輸血は全く別物であり、血を避けるようにという命令は殺人を禁止したもので、輸血を禁止したものではありません。百歩譲ってこれが輸血を禁止した命令であったとしても、命を犠牲にしてまで従わなければならない、という極端なことは要求されていません。

そもそもこの聖書の命令の真意は、命の象徴である血に敬意を払うことで、神が与えてくださった命そのもの、そして神ご自身に敬意を払うということです。象徴を重視するあまり、命そのものを失ってしまっては、まさに本末転倒といえるでしょう。

この輸血禁止の教義は、あなたご自身、ご家族、そして、あなたが宣べ伝える一般の人々の生命に関わることです。これを神の真理だと言って伝えることには、当然重い責任が伴います。ぜひよく検証してください。


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